ガイドの模様 P5

橿原から桜井へ、磐余池跡を考える(2023.4.16)

 晴天の中、32名の参加で、非業の死を遂げた大津皇子が辞世の歌で詠んだ磐余池跡
 の候補地を巡りました。

(行程)
  近鉄桜井駅改札⇒春日神社(戒重)⇒吉備池⇒御厨子観音(昼食)⇒稚櫻神社
  ⇒安倍文珠院⇒石寸山口神社⇒若櫻神社⇒JR桜井駅南口

(春日神社(戒重))
P5-1春日神社(戒重)
 31代敏達天皇の訳語田幸玉宮(おさださきたま
 のみや)の伝承地です。
 また、大津皇子の住まいもこの近くにありました。
 皇子は謀反の疑いで飛鳥から訳語田の舎に連行さ
 れ、そこで処刑されました。


 

(吉備池)
P5-2吉備池
 吉備池で、吉備池廃寺を説明。
 平成9年に発掘調査がされ、第34代舒明天皇が建
 てた百済大寺の跡とする説が有力になりました。
 この百済大寺の発見で、磐余の範囲を見直す説が
 提唱されるようになりました。




(吉備池から東池尻・池之内遺跡へ向かう)
P5-3吉備池から東池尻遺跡
 資料の地図を片手に、池跡の候補地がどこかを確
 認しながら歩いています。







(東池尻・池之内遺跡)
P5-4東池尻・池之内遺跡
 和田萃先生がこの地を詳しく調べられ、この地が
 磐余池跡であると、40数年前に発表されました。
 平成23年の発掘調査で古代に築かれた堤跡が発
 見されたことから、磐余池推定地として東池尻・
 池之内遺跡の説明版が設置されています。


 

(稚櫻神社(池之内))
P5-5稚櫻神社(池之内)
 履中天皇が磐余池で舟遊びをしていると、季節外
 れの桜に喜んだ天皇は宮を若櫻宮と名付けました。
 出雲色男はその桜の所在を訪ねた物部長真膽連の
 先祖。
 ご祭神の由来と、磐余池の伝承の説明に聞き入っ
 ておられます。



(磐余の面影を思いながらの旅)
P5-6磐余の面影
 石寸山口神社から若櫻神社(谷)へ。
 古代の磐余の面影はほとんどなくなっていますが、
 履中天皇他歴代の天皇が置いた宮跡の伝承地、履
 中天皇が舟遊びをした磐余池、大津皇子が死ぬ直
 前に見た磐余池、清少納言が「長谷詣での折に見
 た」と枕草子に書いている磐余池の光景を、参加
 者一人一人に思い描いてもらう一日でした。



  
                      記事 尾花雄二  写真 岡崎伊佐夫