ガイドの模様 P5
- 2023/03/19
- 12:23
橿原から桜井へ、磐余池跡を考える(2023.4.16)
晴天の中、32名の参加で、非業の死を遂げた大津皇子が辞世の歌で詠んだ磐余池跡
の候補地を巡りました。
(行程)
近鉄桜井駅改札⇒春日神社(戒重)⇒吉備池⇒御厨子観音(昼食)⇒稚櫻神社
⇒安倍文珠院⇒石寸山口神社⇒若櫻神社⇒JR桜井駅南口
(春日神社(戒重))

31代敏達天皇の訳語田幸玉宮(おさださきたま
のみや)の伝承地です。
また、大津皇子の住まいもこの近くにありました。
皇子は謀反の疑いで飛鳥から訳語田の舎に連行さ
れ、そこで処刑されました。
(吉備池)

吉備池で、吉備池廃寺を説明。
平成9年に発掘調査がされ、第34代舒明天皇が建
てた百済大寺の跡とする説が有力になりました。
この百済大寺の発見で、磐余の範囲を見直す説が
提唱されるようになりました。
(吉備池から東池尻・池之内遺跡へ向かう)

資料の地図を片手に、池跡の候補地がどこかを確
認しながら歩いています。
(東池尻・池之内遺跡)

和田萃先生がこの地を詳しく調べられ、この地が
磐余池跡であると、40数年前に発表されました。
平成23年の発掘調査で古代に築かれた堤跡が発
見されたことから、磐余池推定地として東池尻・
池之内遺跡の説明版が設置されています。
(稚櫻神社(池之内))

履中天皇が磐余池で舟遊びをしていると、季節外
れの桜に喜んだ天皇は宮を若櫻宮と名付けました。
出雲色男はその桜の所在を訪ねた物部長真膽連の
先祖。
ご祭神の由来と、磐余池の伝承の説明に聞き入っ
ておられます。
(磐余の面影を思いながらの旅)

石寸山口神社から若櫻神社(谷)へ。
古代の磐余の面影はほとんどなくなっていますが、
履中天皇他歴代の天皇が置いた宮跡の伝承地、履
中天皇が舟遊びをした磐余池、大津皇子が死ぬ直
前に見た磐余池、清少納言が「長谷詣での折に見
た」と枕草子に書いている磐余池の光景を、参加
者一人一人に思い描いてもらう一日でした。
記事 尾花雄二 写真 岡崎伊佐夫
晴天の中、32名の参加で、非業の死を遂げた大津皇子が辞世の歌で詠んだ磐余池跡
の候補地を巡りました。
(行程)
近鉄桜井駅改札⇒春日神社(戒重)⇒吉備池⇒御厨子観音(昼食)⇒稚櫻神社
⇒安倍文珠院⇒石寸山口神社⇒若櫻神社⇒JR桜井駅南口
(春日神社(戒重))

31代敏達天皇の訳語田幸玉宮(おさださきたま
のみや)の伝承地です。
また、大津皇子の住まいもこの近くにありました。
皇子は謀反の疑いで飛鳥から訳語田の舎に連行さ
れ、そこで処刑されました。
(吉備池)

吉備池で、吉備池廃寺を説明。
平成9年に発掘調査がされ、第34代舒明天皇が建
てた百済大寺の跡とする説が有力になりました。
この百済大寺の発見で、磐余の範囲を見直す説が
提唱されるようになりました。
(吉備池から東池尻・池之内遺跡へ向かう)

資料の地図を片手に、池跡の候補地がどこかを確
認しながら歩いています。
(東池尻・池之内遺跡)

和田萃先生がこの地を詳しく調べられ、この地が
磐余池跡であると、40数年前に発表されました。
平成23年の発掘調査で古代に築かれた堤跡が発
見されたことから、磐余池推定地として東池尻・
池之内遺跡の説明版が設置されています。
(稚櫻神社(池之内))

履中天皇が磐余池で舟遊びをしていると、季節外
れの桜に喜んだ天皇は宮を若櫻宮と名付けました。
出雲色男はその桜の所在を訪ねた物部長真膽連の
先祖。
ご祭神の由来と、磐余池の伝承の説明に聞き入っ
ておられます。
(磐余の面影を思いながらの旅)

石寸山口神社から若櫻神社(谷)へ。
古代の磐余の面影はほとんどなくなっていますが、
履中天皇他歴代の天皇が置いた宮跡の伝承地、履
中天皇が舟遊びをした磐余池、大津皇子が死ぬ直
前に見た磐余池、清少納言が「長谷詣での折に見
た」と枕草子に書いている磐余池の光景を、参加
者一人一人に思い描いてもらう一日でした。
記事 尾花雄二 写真 岡崎伊佐夫