ご好評のツアーの様子(川原寺)
- 2019/11/05
- 21:34
日本初の写経道場・川原寺で写経体験(2019.9.29)
-飛鳥の❝謎の大寺❞の実像に迫る-
今回のテーマは、我が国最初の写経道場であった川原寺(現在の弘福寺)での写経の体験。同時に、謎の大寺の実像に迫るため、飛鳥時代の古墳や遺跡などを訪ね、彼岸花咲く飛鳥路を歩きます。
〈行程〉
近鉄飛鳥駅→猿石→鬼の俎・雪隠→天武・持統陵→亀石→八坂神社→川原寺→
川原寺裏山遺跡→川原寺寺域北限→万葉歌碑→羽易の山→定林寺→中尾山古墳→
近鉄飛鳥駅 (約7km)
9月29日天気は晴れ。しかし日差しが強く秋とは思えぬほどの暑さです。
参加者21名、スタッフ19名が午前12時飛鳥駅に集合しました。
写経場の収容人数の関係から、本日は
二班に分かれて行動します。
<受付の様子 飛鳥駅前>
川原寺は、飛鳥四大寺に並べられる大寺であったにもかかわらず、創建時期や創建目的が不明の謎の多い大寺です。一方で、日本書紀には、天武天皇2年(673年)に日本で初めてここで写経が行われたとあります。そのような川原寺の概要を案内してから、さあ出発。

まずは欽明天皇陵(正面)・猿石へ。
向かう道中もソムリエ解説が続きます。

<猿石>
吉備姫王(斉明天皇実母)の檜隈墓にある猿石。左から女、山王権現、法師(僧)、男です。何ともユーモラスな恰好の猿石は、飛鳥京の入口で海外からの使節団をもてなすために造られたとの説があります。

田んぼの畔には彼岸花が満開です。
黄金色の稲穂とのコントラストがみごとです。

<檜隈川の万葉歌碑>作者不詳
犬養孝氏の揮毫
『さ檜隈 檜隈川の 瀬を速み
君が手取らば言寄せむかも』 作者不詳
(檜隈川を渡るとき瀬が早いからと、
あなたの手を取ったら恋のうわさに
なるかしら)
微笑ましい光景が目に浮かぶようです。

<カナヅカ古墳>
中央の緑の小山がカナヅカ古墳
一辺が35mの方墳で、7世紀中頃の築造
です。斉明天皇の母吉備姫王の本当の墓
との説があります。
周辺の緑に取込まれ、見逃してしまいがちです。

<鬼の雪隠> <鬼の俎>
昔この近くに住む鬼が、「霧」を降らせ通行人を迷わせて捕らえ、「俎」で調理し、食べ「雪隠」で用を足したという伝承があります。「俎」と「雪隠」は、元は一つの石室だったものが二つに分かれたとされますが、なお真相は「霧」に包まれたままです。

<天武・持統天皇陵(檜隈大内陵)>
川原寺の創建や発展に関わったと考え
られる天武天皇と、皇后だった持統天皇
が合葬されている陵墓です。鎌倉時代の
盗掘の取調べ調書「阿不幾乃山陵記」の
発見で、それが判明しました。五段築成
の八角形墳は、藤原京の真南で堂々と
鎮座しています。

<亀石>
川原寺境内西南隅の標石とも都の境を
示す目印とも言われます。昔は東を向い
ていたのが、少しずつ移動して現在は南西
を向いているとか。西方向を向いた時には
大和一帯が泥の海になるとの恐ろしい言
い伝えがあります。

<八坂神社(天皇社)>
日本書紀の記述から、この場所が斉明
天皇の殯の地の可能性があるとされます。
唐・新羅との戦いのため九州に赴き亡く
なった斉明天皇の無念や、皇子である中
大兄皇子(天智)と大海人皇子(天武)の
悲しみが伝わってきます。
いよいよ川原寺(現在の弘福寺)へ到着です。

<川原寺跡から南に橘寺を望む> <塔の基壇>
スケールの大きさがよく分かります。 創建時は五重塔が建っていました。
南北の長さはなんと333mです

<中金堂の、めのう(大理石)の礎石> <弘福寺の山門>
全部で28個あります。 二班に分かれて写経を体験します。

<本堂にて住職が寺伝解説> <いよいよ写経開始>
・飛鳥四大寺の一つ 皆さん、真剣です。きっと良いことが。
・一塔二金堂の珍しい伽藍配置
・日本で初めての写経誕生の地
・弘法大師が造った持国天・多聞天
・日本で三番目に古い十二神将
川原寺は、斉明天皇崩御(661)から近江大津宮遷都(667)までの間に、亡き母斉明天皇の冥福を祈るため、天智天皇により建てられたとする説が通説となっています。

<川原寺裏山遺跡> <川原寺寺域北限遺構>
1974年の発掘調査により、寺域西北の裏山から仏教関連の貴重な遺物が多数見つかりました。また、2003年の発掘調査では、寺域北限に金属加工や瓦などの生産を行う工房があったことが分かりました。

<橘寺参道入口の万葉歌碑> 作者不詳 犬養孝氏の揮毫
この歌は、川原寺の仏堂の裏にあった倭琴の面に書いてあったと言います。「智に働けば角が立つ……兎角に人の世は住みにくい」夏目漱石の「草枕」の一節が思い浮かびます。



<橘寺標柱前の万葉歌碑> 作者 柿本人麻呂 坂本信幸氏の揮毫
「大鳥の羽易(はがい)の山」と題する石碑です。その山は、柿本人麻呂が妻を失った悲しみを歌った”泣血哀慟歌”の長歌末尾に登場し、三輪山を中心に巻向山と竜王山が連なる様子を表現しています(真ん中の写真の説明文の上部)。右の写真は、人麻呂も見たであろう羽易の山の美しい姿です。

<定林寺跡>
羽易の山の石碑から最終目的地の中尾山古墳に行く途中に国史跡の「定林寺跡」があります。本日は、入口にある標柱の前を通り過ぎ、最終目的地
の中尾山古墳に向かいました。

中尾山古墳の東の登り口あたりは、あすかルビーのイチゴハウスが広がり、その向こうには天武・持統天皇陵が見えます。二つの古墳は、互いに見つめ合うように向かい合っています。祖父母が孫を見守る姿にも写ります。

<中尾山古墳>
いよいよ最後の目的地の中尾山古墳です。皆さん興味深々、熱心に観察されてます。
三段築成の八角形墳で、石槨は切石組みで、内部空間は1m四方しかなく、火葬骨を納めたものと考えられます。また築造時期も合致することから、被葬者については、天武・持統天皇の孫で707年に飛鳥岡で火葬された文武天皇(聖武天皇の父)にあてる説が有力です。

無事全員がゴールし、飛鳥駅で解散しま
した。皆さん、お疲れ様でした。
文 / 写真 : 藤田道夫
-飛鳥の❝謎の大寺❞の実像に迫る-
今回のテーマは、我が国最初の写経道場であった川原寺(現在の弘福寺)での写経の体験。同時に、謎の大寺の実像に迫るため、飛鳥時代の古墳や遺跡などを訪ね、彼岸花咲く飛鳥路を歩きます。
〈行程〉
近鉄飛鳥駅→猿石→鬼の俎・雪隠→天武・持統陵→亀石→八坂神社→川原寺→
川原寺裏山遺跡→川原寺寺域北限→万葉歌碑→羽易の山→定林寺→中尾山古墳→
近鉄飛鳥駅 (約7km)
9月29日天気は晴れ。しかし日差しが強く秋とは思えぬほどの暑さです。
参加者21名、スタッフ19名が午前12時飛鳥駅に集合しました。

写経場の収容人数の関係から、本日は
二班に分かれて行動します。
<受付の様子 飛鳥駅前>
川原寺は、飛鳥四大寺に並べられる大寺であったにもかかわらず、創建時期や創建目的が不明の謎の多い大寺です。一方で、日本書紀には、天武天皇2年(673年)に日本で初めてここで写経が行われたとあります。そのような川原寺の概要を案内してから、さあ出発。

まずは欽明天皇陵(正面)・猿石へ。
向かう道中もソムリエ解説が続きます。


<猿石>
吉備姫王(斉明天皇実母)の檜隈墓にある猿石。左から女、山王権現、法師(僧)、男です。何ともユーモラスな恰好の猿石は、飛鳥京の入口で海外からの使節団をもてなすために造られたとの説があります。

田んぼの畔には彼岸花が満開です。
黄金色の稲穂とのコントラストがみごとです。

<檜隈川の万葉歌碑>作者不詳
犬養孝氏の揮毫
『さ檜隈 檜隈川の 瀬を速み
君が手取らば言寄せむかも』 作者不詳
(檜隈川を渡るとき瀬が早いからと、
あなたの手を取ったら恋のうわさに
なるかしら)
微笑ましい光景が目に浮かぶようです。

<カナヅカ古墳>
中央の緑の小山がカナヅカ古墳
一辺が35mの方墳で、7世紀中頃の築造
です。斉明天皇の母吉備姫王の本当の墓
との説があります。
周辺の緑に取込まれ、見逃してしまいがちです。


<鬼の雪隠> <鬼の俎>
昔この近くに住む鬼が、「霧」を降らせ通行人を迷わせて捕らえ、「俎」で調理し、食べ「雪隠」で用を足したという伝承があります。「俎」と「雪隠」は、元は一つの石室だったものが二つに分かれたとされますが、なお真相は「霧」に包まれたままです。

<天武・持統天皇陵(檜隈大内陵)>
川原寺の創建や発展に関わったと考え
られる天武天皇と、皇后だった持統天皇
が合葬されている陵墓です。鎌倉時代の
盗掘の取調べ調書「阿不幾乃山陵記」の
発見で、それが判明しました。五段築成
の八角形墳は、藤原京の真南で堂々と
鎮座しています。

<亀石>
川原寺境内西南隅の標石とも都の境を
示す目印とも言われます。昔は東を向い
ていたのが、少しずつ移動して現在は南西
を向いているとか。西方向を向いた時には
大和一帯が泥の海になるとの恐ろしい言
い伝えがあります。

<八坂神社(天皇社)>
日本書紀の記述から、この場所が斉明
天皇の殯の地の可能性があるとされます。
唐・新羅との戦いのため九州に赴き亡く
なった斉明天皇の無念や、皇子である中
大兄皇子(天智)と大海人皇子(天武)の
悲しみが伝わってきます。
いよいよ川原寺(現在の弘福寺)へ到着です。


<川原寺跡から南に橘寺を望む> <塔の基壇>
スケールの大きさがよく分かります。 創建時は五重塔が建っていました。
南北の長さはなんと333mです


<中金堂の、めのう(大理石)の礎石> <弘福寺の山門>
全部で28個あります。 二班に分かれて写経を体験します。


<本堂にて住職が寺伝解説> <いよいよ写経開始>
・飛鳥四大寺の一つ 皆さん、真剣です。きっと良いことが。
・一塔二金堂の珍しい伽藍配置
・日本で初めての写経誕生の地
・弘法大師が造った持国天・多聞天
・日本で三番目に古い十二神将
川原寺は、斉明天皇崩御(661)から近江大津宮遷都(667)までの間に、亡き母斉明天皇の冥福を祈るため、天智天皇により建てられたとする説が通説となっています。


<川原寺裏山遺跡> <川原寺寺域北限遺構>
1974年の発掘調査により、寺域西北の裏山から仏教関連の貴重な遺物が多数見つかりました。また、2003年の発掘調査では、寺域北限に金属加工や瓦などの生産を行う工房があったことが分かりました。


<橘寺参道入口の万葉歌碑> 作者不詳 犬養孝氏の揮毫
この歌は、川原寺の仏堂の裏にあった倭琴の面に書いてあったと言います。「智に働けば角が立つ……兎角に人の世は住みにくい」夏目漱石の「草枕」の一節が思い浮かびます。



<橘寺標柱前の万葉歌碑> 作者 柿本人麻呂 坂本信幸氏の揮毫
「大鳥の羽易(はがい)の山」と題する石碑です。その山は、柿本人麻呂が妻を失った悲しみを歌った”泣血哀慟歌”の長歌末尾に登場し、三輪山を中心に巻向山と竜王山が連なる様子を表現しています(真ん中の写真の説明文の上部)。右の写真は、人麻呂も見たであろう羽易の山の美しい姿です。

<定林寺跡>
羽易の山の石碑から最終目的地の中尾山古墳に行く途中に国史跡の「定林寺跡」があります。本日は、入口にある標柱の前を通り過ぎ、最終目的地
の中尾山古墳に向かいました。

中尾山古墳の東の登り口あたりは、あすかルビーのイチゴハウスが広がり、その向こうには天武・持統天皇陵が見えます。二つの古墳は、互いに見つめ合うように向かい合っています。祖父母が孫を見守る姿にも写ります。


<中尾山古墳>
いよいよ最後の目的地の中尾山古墳です。皆さん興味深々、熱心に観察されてます。
三段築成の八角形墳で、石槨は切石組みで、内部空間は1m四方しかなく、火葬骨を納めたものと考えられます。また築造時期も合致することから、被葬者については、天武・持統天皇の孫で707年に飛鳥岡で火葬された文武天皇(聖武天皇の父)にあてる説が有力です。

無事全員がゴールし、飛鳥駅で解散しま
した。皆さん、お疲れ様でした。
文 / 写真 : 藤田道夫