ご好評ツアーの様子(二上山)

大津皇子ゆかりの二上山をめざす!(2019.11.23)
   ~皇子を偲びゆっくりと登りませんか~

 今回のガイドコンセプトは、悲劇の生涯を送った大津皇子を偲び、その遺跡をたどると共に、詠われた万葉歌を紹介し、その時代に心よせるツアーです。

行程
近鉄二上神社口駅集合→倭文神社→加守廃寺→大津皇子二上山墓→葛木二上神社→雄岳→馬の背→雌岳(昼食)→祐泉寺→鳥谷口古墳→大伯皇女・大津皇子歌碑→近鉄当麻寺駅解散(約5.5㎞)

 令和元年11月23日(土・祝)近鉄二上神社口駅9時30分に集合しました。天候は快晴、参加人数は17名で(男性3名、女性14名)4班に分けたツアーです。

近鉄二上神社口駅前でのあいさつ
<近鉄二上神社口駅前でのあいさつ>

 11月とは思えないほどの陽気な気温と日差しの中、これから始まる登山の前に倭文神社に向かいます。倭文神社の正式名称は葛木倭文坐天羽雷命神社(倭文氏の祖神)であり、掃守神社(産婆の神、宮中の掃除)及び二上神社(二上山頂の葛木二上神社の分霊)が摂社として祀られています。

倭文神社
<倭文神社>

 倭文神社参拝後、すぐ北側にある加守廃寺に行きます。薬師寺縁起によると大津皇子が謀反の疑いで捕まったときに隠れていたとされています。北遺跡・南遺跡の発掘調査結果の状況図、写真等を用いて古代寺院の面影を追います。

加守廃寺 - コピー
<加守廃寺>

 途中で何度か休憩、おやつタイムをはさみ、リタイヤされる方もなく全員一時間半かけて雄岳に到着しました。大津皇子二上山墓前では、皇子の系図で大津皇子と草壁皇子との関係を示し、大津皇子の死を「懐風藻」や「日本書紀」の記述を基に説明しました。なぜ謀反人である大津皇子が人々を見下ろす山頂に祀られたのか、実際に山頂にて感じていただくことが今回のメインテーマです。

大津皇子二上山墓
<大津皇子二上山墓>

 雄岳付近にある葛木二上神社前で二上山の成り立ち、山の構成、産出された鉱物、戦国時代には山城があったことをお話します。すぐ横には役小角が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚があります。

葛木二上神社前
<葛木二上神社>

 天候に恵まれたため、雌岳からは奈良盆地内の大和三山、遥か遠くの宇陀地方まで見渡すことができました。

雌岳から眺めた奈良盆地
<雌岳から眺めた奈良盆地>

 昼食後、下山します。
 祐泉寺山門では鮮やかな紅葉がみられました。足元に注意しながら下ばかり向いていた参加者から歓声があがりました。

祐泉寺山門の紅葉
<祐泉寺山門の紅葉>

 鳥谷口古墳は昭和58年の土取工事の途中に偶然発見されました。7世紀後半の横口式石榔の石室で、石材がどこからかの家形石棺の蓋で転用され急造した可能性が高いことから考古学的には大津皇子の墓ではないかとされています。

鳥谷口古墳
<鳥谷口古墳>

 大津皇子の遺体を二上山に移された際に姉の大伯皇女が詠んだ、
「うつそみの 人なる我や 明日よりは二上山を 弟世と我が見む」(万葉集巻2-165)。この歌を根拠として、大津皇子は二上山のどこかに葬られたとされています。二上山そのものを弟と想って生きていこうという姉の哀しみが伝わる一首です。

大伯皇女が詠んだ万葉歌碑
<大伯皇女が詠んだ歌碑>

 大津皇子が石川郎女に贈った歌
「あしひきの 山のしづくに、妹待つと 我立ち濡れぬ 山のしづくに」(万葉集巻2-107)。草壁皇子との三角関係で勝ったのはどっちでしょう。

大津皇子が詠んだ万葉歌碑
<大津皇子が詠んだ歌碑>

 「すごく楽しくもあり、二上山の歴史も勉強でき、紅葉、景色もすばらしく最高の一日になりました」とのアンケートをいただきました。全員ケガなく無事に登頂・下山できました。

以上
本文・写真:橋爪生雄

ご挨拶

奈良まほろばソムリエの会        ガイドグループ

奈良まほろばソムリエの会        ガイドグループ

NPO法人
奈良まほろばソムリエの会

奈良に精通する人材を認定する「奈良まほろばソムリエ検定」(奈良商工会議所主催)の最上級「奈良まほろばソムリエ」の合格者をはじめとする奈良を愛する人々の集まりです。