トピックス:(蘇我氏ゆかり)

蘇我氏ゆかりの飛鳥の地をめぐる(2018.5.13)
     ~蘇我本宗家興亡の足跡をたどる~


蘇我氏発祥の伝承地や権勢誇示の儀礼実施の場(軽の衢)最初の仏教受け入れの邸宅跡、蝦夷・入鹿の双墓推定地を訪ね、乙巳の変に至る蘇我本宗家の盛衰の地を歩きました。

<行程>
橿原神宮前駅東口→丈六交差点→軽寺跡→五条野丸山古墳→孝元天皇陵→
和田廃寺跡→豊浦宮跡(向原寺)→甘樫丘→東麓遺跡→小山田古墳→菖蒲池古墳→
五条野宮ケ原1・2号墳→梅山古墳→飛鳥駅 (約10キロ)


天気予報は雨。にもかかわらず21名が参加。5組に分かれて順次出発です。仏教伝来の頃にタイムスリップして古代に思いを馳せ、歴史の舞台を訪ねました。

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<堅塩姫の改葬が行われた軽の衢>
橿原神宮前駅東口の交差点は下つ道と山田道が交差し、古代には軽の衢と言われ大いに栄えた地であり、推古20年堅塩姫(欽明天皇の后・稲目の娘)の改葬が大々的に行われたと書紀にあります。

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<五条野丸山古墳>
前方後円墳で時期の異なる石棺が2つ置かれています。被葬者は欽明天皇とも稲目とも。奥棺が堅塩姫のものであったのならば、大々的な儀式後に欽明陵に改葬、欽明陵ならば大々的な儀式後に追葬されたとなります。

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<孝元天皇陵>
第8代孝元天皇陵に。孝元天皇の子孫に武内宿祢が出て、その後裔に蘇我氏が列挙されています。ここは蘇我氏のルーツ?

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<剣池(現石川池)>
御陵の剣池から644年1本の茎から2つの花を咲かせた蓮が見つかり蝦夷は「蘇我が栄える瑞兆だ」と喜び飛鳥寺の仏に献上しますが1年後乙巳の変で滅びます。

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<和田廃寺跡>
この和田の地には蘇我本宗家だけでなく葛木臣、田口臣、田中臣等が群雄割拠していて各々が寺院を建立します。和田廃寺は葛木寺とされ、葛木臣は名家とされていました。

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<豊浦寺跡(向原寺)>
欽明天皇に仏像を授けられた稲目は向原の家を仏堂とします。向原寺境内の下層には稲目の家、豊浦宮、豊浦寺の重層した遺構が見られます。豊浦寺は飛鳥寺とセットになる尼寺です。
盗難に遭って戻ってきた白鳳の観音像を見せてもらい蘇我氏と物部氏の仏教を巡る争いの難波池も覗きました。

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<展望台への道>              <甘樫丘展望台>
甘樫丘の休憩所の屋根から落ちる雨雫を恨めしく見ながらの昼食。雨が本降りとなってきました。甘樫丘に登り、展望台より東に飛鳥寺、北西に豊浦寺跡を眺めます。ここからは飛鳥が一望できます。

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<甘樫丘東麓遺跡>
蝦夷・入鹿は甘樫丘を城塞とし、「上の宮門」「谷の宮門」と呼ぶ邸宅を構えますが、乙巳の変後、蝦夷は邸宅に火をかけ自害。この時天皇記も焼けてしまいました。邸宅跡は夏木立となり緑雨にけぶっていました。

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<小山田古墳・明日香養護学校の敷地内><菖蒲池古墳・奥に石棺がもう1こあります>
蝦夷と入鹿は生前双墓を作ったと日本書紀に書かれていますがそれがどれであるのか?甘樫丘の南にある小山田古墳?菖蒲池古墳?その西方の宅地開発されてしまった五条野宮ケ原1号墳・2号墳も大変怪しく結論はなかなか出そうにありません。2つの双墓を眺め、いったいいずれの方がねむっているのか、などとあれこれ考えながら飛鳥駅へと向かいました。

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<水嵩が増えた池>
蘇我氏のそもそもの成りたちは歴史のなぞです。他の豪族に対して自分の系譜を立てるために伝説的天皇である第8代孝元天皇の子孫であると自称し、天皇家と姻戚関係を結び、蕃神の仏教を取り込むことで、大陸の文化・技術・帰化人を集める力を持ち、天皇家をもしのぐ存在となるや乙巳の変で蘇我本宗家は消えてしまいます。日本書紀は勝者の記録ですので実態は歴史の中に葬られてしまいました。

大雨の中の健脚向きの10kmは靴の中まで濡れてしまいましたが、大変印象深いガイドでしたと喜んでもらえました。ご参加ありがとうございました。

文・写真 ガイドグル―プ 前田景子
プロフィール
奈良をよく知り、奈良を愛するボランティアガイドのグループです。奈良の本当の素晴らしさを皆様にお伝えします。 奈良観光のご相談も、お気軽にどうぞ。

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