トピックス(大官大寺)

幻の大官大寺を追いかけて(2017.11.19)
~天武朝の謎とその候補地を探る~

1300年前の飛鳥時代に思いをはせ、「幻の大官大寺」であるこの寺の候補地を訪れその謎に迫る古代ロマンの当ツアーです。

<行程>
JR香久山駅→吉備池廃寺→大官大寺跡→ギヲ山西遺跡→小山廃寺→奈良文化財研究所
→木之本廃寺→藤原宮跡→JR畝傍駅 (約6.5km)

朝から気温も低く寒い日でしたが、心配していた雨も上がり時々は日も差す日和でした。
37名の皆さんが、古代の横大路が通るJR香久山駅前に集合。
ガイド・サポーター13名が案内しました。
DSCF1096.jpg  DSCF1102.jpg

DSCF1099.jpg  DSCF1100.jpg
早速、香久山駅前で説明を受けるグループや、歩きながら説明を受けるグループと思い思いの
スタイルで出発です。

DSCF1106.jpg  DSCF1111.jpg
現在の横大路・国道165号線を渡って、吉備池廃寺へ向かいます。
          
DSCF1120.jpg
吉備池廃寺の入り口にある神武天皇碑の前で説明を受け、吉備春日神社で大津皇子の話を聞きました。遠くに二上山も見えています。



DSCF1130.jpg  DSCF1126.jpg
吉備池の発掘調査によって巨大な古代寺院跡であることが判明しました。吉備池廃寺は舒明天皇が造営した百済大寺最有力候補地の可能性が高くなりました。
吉備池廃寺の発掘写真や航空写真・地図等を示しながら具体的な説明をしました。

DSCF1145.jpg
磐余池の候補地は、「磐余池」とは断定できないが、堤と池の堆積土が確認され、古代の池があったことは確実です。


DSCF1168.jpg
御厨子観妙法寺から天香久山の麓 万葉の森を歩いて飛鳥の里に向かいます。



DSCF1182.jpg  DSCF1188.jpg
国史跡の「大官大寺」は、文武朝の造営によるものであり、水田の中に金堂跡・塔跡の基壇が残っています。

DSCF1190.jpg
大官大寺(文武朝)の西側にギヲ山と呼ばれる丘があり、周辺から古代瓦が出土してギヲ山西遺跡と呼ばれており、高市大寺の候補地の一つです。



DSCF1210.jpg  DSCF1209.jpg
小山廃寺(紀寺跡)の説明 横の明日香テニスコートでは、第40回全国選抜高校テニス大会近畿地区大会開催されていました。

DSCF1221.jpg
奈良文化財研究所 昼食・資料室見学

DSCF1238.jpg
紅葉が見ごろの奈良文化財研究所より畝傍山を望む

DSCF1244.jpg
木之本廃寺―畝尾都多本神社周辺に木之本廃寺があったとされています。高市大寺の候補地の一つとして考えられています。

DSCF1261.jpg  DSCF1259.jpg
藤原宮跡―日高山南方説の説明。
藤原京の朱雀大路の延長線上に高市大寺があったのではないかと説について説明しました。

DSCF1279.jpg  DSCF1270.jpg
「万葉浪漫フェスティバルIN藤原宮跡」開催中でしたが、誰も立ち寄ることなく
醍醐池の前を通り、傳藤原宮海犬養門跡前で説明を受けて畝傍駅へと向かいました。
グループごとに順次解散しました。

幻の大官大寺(高市大寺)についての二つの謎 
① なぜ、急いで大寺を百済から高市に移したのか?
② なぜ、飛鳥から離れたこの場所を選んだのだろうか?
今回の謎解きのツアーは、いかがでしたか? 研究者の間でも意見が分かれています。
本当のところは、まだまだ時間がかかりそうです。
大和三山を常に眺めながら、一日ゆったりとした気分で歩くことができました。


文 写真 ガイドグループ 奥田八尋

トピックス(春日山原始林)

知られざる?世界遺産・春日山原始林(2017.12.3)
~神が鎮まる山に分け入り若草山頂へ~

世界遺産「古都奈良の文化財」(1998年登録)の資産群の中でも、春日山原始林は面積の半分(約300ha)を占め、市街地間近に大自然が残る静かな観光スポットです。
60回式年造替を昨年終えたピカピカの春日大社に参拝し、春日山原始林で巨樹を仰ぎながら森林浴を楽しみ、若草山山頂では、うまし国のパノラマを見ながら昼食をとり、最後は、春日野フォーラム甍の名庭を散策するツアーでした。

<行程>
春日大社本殿バス停⇒ 春日大社 ⇒ 水谷神社 ⇒ 仏頭石 ⇒月日磐 ⇒ 
春日山遊歩道 ⇒ 若草山山頂(昼食)⇒ 若草山ハイキングコース ⇒ 
春日野フォーラム甍  庭園を散策し解散  (約6.5km)

当日は好天の下、65名の方に参加頂き、10班に分かれ上記コースを巡りました。
以下に、そのガイド風景をご紹介します。

CIMG4429.jpg  CIMG4432.jpg
受付場所に集まられた参加者の皆さん。受付後、班別にコース概要の説明をしました。

CIMG4436.jpg
春日大社拝所の東端で、式年造替直後の朱色が眩しい本殿を説明。
          
CIMG4445.jpg  CIMG4448.jpg
     水谷神社(東側)            水谷神社(西側)        
社の東側で、床下の磐座の説明を受けた後、西側で、イブキの巨樹の中に生えたスギを眺める皆さん。

CIMG4454.jpg  CIMG4452.jpg
原始林の入口間近にある仏頭石を拝観する皆さん  <仏頭石>
仏頭石:6角柱の頂部に如来面、体部に六観音を彫る異形の石仏。

CIMG4456.jpg  CIMG4455.jpg
川の中の月日磐を覗く皆さん           <月日磐>
月日磐:聖水水谷川の途中にある“月日”を彫った石。氷室神社の創建地。

CIMG4458.jpg
好天に恵まれた晩秋の春日山原始林、若草山山頂へゆっくりと歩を進めます。

CIMG4461.jpg
途中、台風21号の爪痕を確かめる。台風の被害で、春日山遊歩道は一時通行禁止に。

CIMG4467.jpg
若草山山頂に到着、うまし国、大和の眺望。絶景!

CIMG4475.jpg  CIMG4482.jpg
昼食後、ススキとワラビの若草山を下山。下る途中、神が鎮まる御蓋山が眼前に。

CIMG4487.jpg
「春日野フォーラム甍」の庭園を散策。木の葉の彩りがまだ鮮やかでした。

CIMG4489.jpg
「春日野フォーラム甍」前で班ごとに解散。お疲れ様でした。

トピックス(葛城の道)

葛城の道―古代の大豪族・葛城氏の本拠地を巡る(2017.11.5)

今回のテーマは葛城氏に注目してゆかりの地を訪ねることでした。
奈良盆地西南部の金剛山や葛城山の山麓部に勢力を誇っていた葛城氏の奥津城と、葛城氏にかかわる巨大集落遺跡、葛城氏が連れて帰った捕虜を始祖とする渡来系氏族の忍海氏の氏寺を巡りました。

<行程>
近鉄御所駅→室宮山古墳→南郷遺跡→長柄神社→長柄公民館→長柄小学校→一言主神社
→高丘宮跡→地光寺跡西遺跡→地光寺跡東遺跡→角刺神社→近鉄忍海駅(約10キロ)

11月5日(日)、快晴のもと18名の参加者とガイド3人、サポーター3人が近鉄御所駅に集合。早い人は8時半過ぎに到着していました。常連の参加者も初めての参加者も気兼ねなくお話ししている内に集合時刻の9時半になりました。
近鉄御所駅集合風景
   <近鉄御所駅集合風景>

バスで宮戸橋まで行き室宮山古墳に向かいました。室宮山古墳は5世紀初頭に築造された全長238mの前方後円墳です。葛城氏の祖、葛城襲津彦が被葬者として有力視されています。後円部に二つの竪穴式石室があり、調査された南石室には竜山石製の長持形石棺があります。懐中電灯を用意して石棺の中を覗きました。
女性の方は1人では来ることができないからと楽しみにしていたようです。
室宮山古墳石室見学
  <室宮山古墳石室見学>            

下街道を南下して、1992年、圃場整備事業に伴って発掘調査がされた南郷遺跡へ。現在はのどかな田園風景が広がりますが、かつては葛城氏に関わる武器生産の特殊工房や首長の居住地でした。出土状況の写真を使って説明します。
南郷遺跡遠景
    <南郷遺跡遠景>         

西に向かって集落の中を行き、長柄神社へ。ご祭神は記紀神話に登場する下照姫命で、俗称姫の宮といわれています。地名の由来はゆるやかで長い葛城山の尾根を意味する長江(ながえ)が長柄(ながえ)になり音読して‘ながら’となりました。境内入口には近くに実家がある堺屋太一さんの献灯した石灯籠があります。
長柄神社
      <長柄神社>

長柄公民館で昼食後、メインガイドの河井さんによる葛城氏と南郷遺跡群についての座学です。系図をもとに葛城氏と天皇家との関係や、各遺跡の出土状況・復元予想図など資料を用いて詳しい説明がありました。メモを取る参加者が大勢いました。
長柄公民館で座学
   <長柄公民館で座学>

公民館から北に歩いて5分程で長柄小学校です。校内敷地で竪穴式住居や石垣を伴う堀の遺構が検出されました。復元された2列の石垣とそれにはさまれた濠の写真を見せながら説明です。竪穴住居は葛城氏の居館と推定されています。
長柄遺跡説明
    <長柄遺跡説明>

さらに一言主神社まで北上していきます。葛城の神と言えば忘れてならないのは一言主神です。記紀では雄略天皇と一言主神の出会いの場面が記されています。古事記と日本書紀とで扱いが違うため葛城氏と天皇家との関係がどうであったのか説が分かれます。
一言主神社
     <一言主神社>

第2代綏靖天皇宮跡の伝承地・高丘宮跡までは自然豊かな古道を通ります。襲津彦の娘であり、仁徳天皇の皇后磐之姫命が、故郷を偲んで詠んだ歌「つぎねふ 山背川を 宮上がり・・・我が見が欲し国は葛城 高宮 我家のあたり」の‘我が家’はこのあたりとされています。
高丘宮跡
      <高丘宮跡>

地光寺跡まではさらに一時間程歩きます。汗ばむ陽気でしたが、時折吹く風が心地いいねと話しながらゆっくり歩きました。「地光寺跡」は鉄生産に関わった渡来系の忍海氏の氏寺とされています。
山麓線をはさんで西の地光寺旧跡の石碑がある北側が、8世紀前半の四天王寺式伽藍配置とされる西遺跡です。
地光寺跡西遺跡
    <地光寺跡西遺跡>

東の脇田神社境内には東塔の心礎が残っています。
東西二つの寺院は出土瓦などから7世紀末頃東遺跡が建立され、8世紀前半には西遺跡に移されたと考えられています。
この遺跡で注目を浴びたのは鬼面文軒丸瓦が出土したことです。鬼瓦ではなく軒先を飾る瓦です。県内でも珍しく、瓦のデザインは葛城市歴史博物館のシンボルマークになっています。
地光寺跡東遺跡
    <地光寺跡東遺跡>

最後は角刺神社です。第22代清寧天皇が崩御されて後継者探しをしている間、飯豊皇女が王権の政務を執った忍海角刺宮跡とされています。しかし執政期間は短くわずか10ヶ月で崩御されました。飯豊皇女の両親はいずれも葛城氏の血をひいています。
角刺神社
      <角刺神社>

葛城氏について豊富な資料と写真を用意し、参加者にわかりやすい説明があったことは好評でした。
歩数計が18000歩越えた方は、興味深い内容で充実した1日だったと話されました。
16時半には全員、近鉄忍海駅で解散しました。

文 写真 ガイドグループ  寺田麻美

トピックス(吉野龍門の里)

滝の織りなす聖地・吉野龍門の里を歩く(2017.9.30)

 龍門は飛鳥・奈良時代の貴族たちにとって世俗を遠く離れた別世界であり、山中には龍門の滝があり山懐に龍門寺が創建されました。龍門の里を歩き、吉野山でない龍門岳・吉野川の原吉野の歴史の舞台をたどりました。

<行程>
近鉄大和上市駅→吉野山口神社→龍門寺跡→龍門の滝→山口薬師寺→菅生寺→
平尾代官所跡→芭蕉句碑→佐々羅の街並み→妹山樹叢と大名持神社→近鉄大和上市駅
(約6・5キロ)


 爽やかな秋空が広がっています。17名が近鉄上市駅に集合。コミニュティバスに乗り込み出発です。神社、寺跡、滝、句碑、寺等、実りの秋の龍門の里を歩きました。

  DSCN0103.jpg  DSCN0100.jpg
       <吉野山口神社>
 大山祗神をお祀りする宮で「龍門大宮」「天満宮」「吉野山口神社」と名前が変わっています。紀州藩の参勤交代の道沿いでもあり、石灯籠が寄進されています。

  DSCN0114.jpg  DSCN0113.jpg
        <龍門寺跡>            
 古代山岳寺院のひとつで、奈良時代初期の瓦などが出土し、室町時代に廃寺。水音と足裏にやさしい山道。人間臭い久米の仙人の話も出、なごやかに山を下りました。

  DSCN0118.jpg  DSCN0122.jpg
        <龍門の滝>         
龍門の花や上戸の土産にせん  酒のみに語らんかかる滝の花     
芭蕉はその後吉野山に向かいます。

  DSCN0131.jpg  DSCN0151.jpg
         <菅生寺>
 龍門寺の別院。龍門寺の衰退と共に浮き沈みを繰り返し、庫裡には神武天皇から今上天皇までの肖像画が並んでいます。和尚さんに話をお聞きしました。

  DSCN0126.jpg  DSCN0152.jpg
       <龍門・実りの秋>
 当地・平尾で起こった農民一揆。その後年貢が軽くなったということはありませんでした。今日は小学校の運動会。実りの秋の景色に200年前に起こった一揆のあとはみじんも感じられませんでした。

  DSCN0138.jpg  DSCN0136.jpg
      <佐々羅の街並み>
 中世に龍門寺の荘園として発展したこの地の中心で、吉野と宇陀を結ぶ街道集落。
ひときわ立派な坂本邸は南都銀行の前身・吉野銀行、近鉄南大阪線の前身・吉野鉄道の創始者の屋敷。坂本龍門文庫を持つ。

  DSCN0141.jpg  DSCN0147.jpg
     <妹山樹叢と大名持神社>
 こんもりとした杜が左に現われ、道は吉野川に突き当たりました。
大名持神社は9世紀に正一位を与えられた謎の神社で、大汝詣りと呼ばれる民俗行事が現在も伝わっています。


 世俗の垢が付いていない聖なる地・龍門ですが、江戸時代、水が涸れて米が実らなければ上納が出来なく、村人の生活はたちまち窮することになります。里を潤す山からの水は天からの水でもありました。

 奈良盆地南部の地域の人にとって吉野川は聖なる川とされ、大名持神社の河原の石と水には霊力が宿るとされていました。大台ケ原に源を発する吉野川の水を奈良盆地に引くことは先人の切実な願いでありましたが、津風呂湖ダム、吉野川分水により願いが叶えられました。

 今回は“水”をテーマに龍門を歩き実りの秋を目で楽しむことが出来ました。
参加者の方々も熱心にメモを取っておられましたが、中国の故事に慣らい今日ここに来たことがおひとり、おひとりの登竜門となることをお祈りいたします。皆様、ご参加ありがとうございました。
 

トピックス(天理市東部)

天理市東部を縦断する(2017.10.08)

 今回の募集ツアーは、当日午後から天理市文化センターで行われる「講演会」の前段として
計画されたものです。天理市中心部の見所を廻る場合、天理教本部施設を避けることは出来ないし、また当地で講演会を行うに際し、そうした施設や信者さん達のありように丁寧に向き合うのも当を得た企画だと思いました。

<行程>
近鉄天理駅→三島神社(三島町)→天理教教祖墓地(豊田町)→記念建物(三島町)→
天理教教会本部(同左)→西山古墳(杣之内町)→塚穴山古墳(同左) 約5.5km


 当日は暑い位の好天に恵まれました。参加者は不参者あり飛び入りありで総勢27名でした。定刻には班態勢も整い、それぞれガイドに従って出発して行きました。

集合風景
   <天理駅での集合風景>

 三島神社の主祭神は大山祇神。山の神でもあり、海の神でもあるのです。当社は、伊豆一の宮「三嶋大社」・伊予一の宮「大三島大山祇神社」と同系統の神社とも言われます。

三島神社にて
    <三島神社にて>            

 教祖中山みきの墓所。豊田山墓地の最高所にあり、箸墓古墳を望むことも出来ます。周辺は何時も綺麗に清掃が行き届いています。古墳ではありませんが、天皇陵並の風格があります。教祖は明治20年正月26日に没しました。毎月26日が月次祭となり、全国から信者さんが集まります。

教祖墓地の前で
    <教祖墓地の前で>         

 記念建物は布教を始めた当時の教祖の居宅等で、現在の教会本部神殿付近にあった建物4棟が移築・保存されています。宗教上の理由から全て撮影禁止です。

記念建物に向う参加者
 <記念建物に向う参加者たち>

 天理教教会本部は、親神様(天理王命)が人類を創造したとされる場所「おぢば」に建つ神殿を中心とした建物群です。ほぼ総ヒノキ造りで、神殿内部の中央に甘露台と呼ばれる6角形の木製構造物があり、訪れた信者はその周囲から礼拝ができます。

本部神殿に参拝する参加者
<本部神殿に参拝する参加者たち>

 西山古墳は全長185mを計る巨大前方後方墳。布留地区を通じて最大かつ最古(4世紀後半)の古墳です。被葬者はいずれ物部氏となる集団の始祖王であったと思われます。

西山古墳を前に
   <西山古墳を前に>

 西山古墳と周濠を接するように築造された塚穴山古墳です。60m余の大型円墳で、17mある巨大な石室下部が露出しています。6世紀末頃の築造ですが、被葬者は明らかに隣接する西山古墳を意識しています。

塚穴山古墳(1)
<塚穴山古墳を見学する参加者たち>

 本部神殿では全員が登壇して参拝するなど参加者のマナーも申し分なく、外見的にも好ましく映ったのでしょうか。「山辺の道(巡り)ですか?」コースも終盤、天理高校の前で2人連れの女子高生に声を掛けられました。教祖墓地をはじめ教会本部施設を見学させて貰い、間も無く終了となることを説明しました。「そうですか、有難うございます」彼女等として何かを感じたのでしょうか。ささやかな交流により募集イベントの在り方を改めて考えました。

                                          東エリア 田中昌弘  

トピックス(阿修羅)

阿修羅の世界を訪ねる(2017.9.20)

この秋、興福寺仮講堂で開催されている「阿修羅・天平乾漆群像展」に合わせて、まず室内で阿修羅にまつわる解説をお聴き頂いたうえで、より興味深く拝観して頂こうという企画を実施しました。

<行程>
近鉄奈良駅→事前解説(奈良市中部公民館)→興福寺(仮講堂・天平乾漆群像展、東金堂、伽藍案内) (約1.5キロ)

9月20日、曇り空で残暑もなく、過ごしやすい一日となり、34名の皆さんにご参加頂きました。

まずは、中部公民館で「阿修羅の世界を訪ねる」と題し、約50分の解説を行いました。
興福寺の阿修羅が、切ない表情をしている背景には、当時重要視された「金光明最勝王経」というお経の一節があること、阿修羅など八部衆の四体が、極めて異例の「少年の顔」に造られたことなどを、お話しました。

講座1講座2

その後、人数調整のため、A・B二つのグループに分かれて、①仮講堂での「天平乾漆群像展」拝観、②東金堂拝観、③興福寺の伽藍案内を行いました。(以下はAグループの拝観ルートです)

中金堂先ほどの解説を思い出しながら、仮講堂での「天平乾漆群像展」を納得いくまで拝観。
次は東金堂に向かいます。


東金堂東金堂の前では、入堂の前に、これから拝観する仏像についてご案内しました。四天王像、十二神将像、慶派の作った文殊菩薩・維摩居士など、国宝がたくさんありますが、今年は、国宝館から移された銅造仏頭も拝観できます。


五重塔1室町時代再建の国宝の五重塔。軒の出が深く天平時代の姿を踏襲しながら、中世の豪壮な造りも合わせ持っています。明治の廃仏毀釈の折、売りに出された話があったとか。


三重塔中金堂、南円堂と伽藍を巡り、国宝の三重塔に来ました。こちらは、五重塔と対照的に女性的な優美な建物です。
初層部分は大きめに造られ、弁財天が祀られています。


この後、北円堂をご案内して、ツアーは終了しました。
「事前解説+ガイド」のスタイル、「わかりやすかった」たとのご意見もあり、楽しんで頂けたのではと思います。
                                            (担当ガイド:安井 永)

トピックス(當麻寺「練供養」)

當麻寺「練供養」と中将姫ゆかりの地巡り(2017.5.14)

今回のガイドコンセプトは1005年(寛弘2)から戦時中であっても途切れることなく営まれている「聖衆来迎練供養会式」を見学するため、中将姫伝説を随所でお話しし、ゆかりの地を巡り当日でしか見ること・体験できないことを味わう事でした。

<行程>
近鉄当麻寺駅→けはや館・けはや塚→當麻寺→ステーション(昼食)→傘堂→鳥谷口古墳→
高雄寺→石光寺→中将姫墓所→ 當麻寺境内(解散)・練供養(約7km)


5月14日、前日の大雨がうそのように当日は晴天に恵まれました。当会の参加者は36名でしたが練供養当日のこの日は日曜日ということもあり、駅には多くの方が降りてきていました。
9時半頃から到着順に4・5名を1グループとして受付終了後、順次スタート。10時過ぎには最終グループがけはや館に向かいました。
けはや館
<けはや館>

中将姫伝説は長いのでけはや館前で誕生から出家までお話しします。
継母に殺されかけるも恨みもせず、一心にお経をあげる姫のお話しは涙なしでは語れません。 
けはや館前での案内風景
<けはや館前での案内風景>

當麻寺境内に入り、木陰で出家後のお話しをします。
17歳の時、参籠中に現れた阿弥陀の化身の尼僧に助けられ、蓮糸を織り上げ、13年後聖衆を従えた阿弥陀が来迎し、姫は合掌し生きたまま西方浄土に迎えられたとされます。
仁王門近く
<仁王門近く>

當麻寺の創建は縁起によれば612年(推古20)、用明天皇の第三皇子麻呂子が異母兄の聖徳太子の教えを受け二上山の西(大阪府太子町)に建てた万法蔵院禅林寺に始まります。
681年(白鳳9)、麻呂子皇子の孫である當麻国見が役行者ゆかりの現在の地に移し禅林寺と号し、弥勒仏を本尊として創建されたのが現在の當麻寺とされています。真言宗と浄土宗が二宗共存する珍しい寺です。
本堂前での案内風景
<本堂前での案内風景>

本堂は天平時代。寄棟造、本瓦葺。本尊は中将姫が織ったと伝えられている「綴織當麻曼荼羅図」で国宝に指定されています。
練供養の期間だけ裏板曼荼羅が拝観可能です。
この日は本堂を「極楽堂」と呼び、「娑婆堂」との間に約120mの来迎橋が渡されます。
来迎橋
<来迎橋>

中之坊本堂は中将姫が奈良時代に剃髪した受戒堂です。中に入らず外で案内します。
中之坊前での案内風景
<中之坊前での案内風景>

護念院にて練供養のビデオ鑑賞、住職による法話を聞き、二十五菩薩の御面を拝観します。
面かぶりは練供養当日、午前の間しか体験できないことで参加者は興味を持って楽しんでいました。
面かぶり体験1 面かぶり体験2
<面かぶり体験>

境内案内の後、ステーションに行き、昼食後、鳥谷口古墳へ。加工後の石棺石材を大量に使用していることから、非業の死をとげた大津皇子の墓とされています。
新緑の中上がっていきます。道中で野草の写真を撮られる方がいました。釣られてパチリ。
鳥谷口古墳1 鳥谷口古墳2 
<鳥谷口古墳>

その後傘堂へ向かいます。
傘堂は一本柱の上に宝形造の屋根を載せただけの造りで、練供養のこの日、カラフルな幔幕が張られていました。参加者は、身体を真柱の周囲に接しながら巡るとご利益があるとのことで、興味津々で中に入りました。
堂内巡り
<堂内巡り>

高雄寺から中将姫ゆかりの「染の井」と「糸掛桜」がある石光寺に行きます。
石光寺の本尊は阿弥陀如来。天智天皇の時、光り輝く所があり掘ると光を放つ石仏「弥勒三尊」が出たので勅願により役行者が堂宇を建てたのが始まりとされています。
染の井
<染の井>

中将姫墓所を通り、15時半頃、當麻寺に戻りました。朝に比べて境内には多くの観光客が集まっており、これから始まる練供養会式を待ちわびていました。

「中将姫」の像を輿に乗せ極楽堂から娑婆堂まで送られます。その後僧侶、お稚児さん、雅楽の演者が続々登場。「天人」が二十五菩薩を先導するスタイルは當麻寺オリジナルです。
天人
<天人>

観音菩薩は両手で蓮台を持ち、左右にささげてはすくいあげる所作を繰り返します。
観音菩薩
<観音菩薩>

勢至菩薩は合掌しながら観音菩薩と同じように体をねじって進みます。
勢至菩薩
<勢至菩薩>

しんがりは天蓋を持った普賢菩薩がつとめます。
普賢菩薩
<普賢菩薩>

娑婆堂では観音菩薩と勢至菩薩が「奉奏舞」を舞います。
帰りの観音菩薩の蓮台には中将姫像の像内から取り出した宝冠阿弥陀坐像がのっています。
帰りの観音菩薩
<帰りの観音菩薩>

喜多郎のシルクロード(絲綢之路)が流れる中、最後に輿が娑婆堂から出ます
娑婆堂から出る輿
<娑婆堂から出る輿>

終わるころには夕日が射しこんでいます。
夕日を浴びる来迎橋
<夕日を浴びる来迎橋>


「今回の練供養のように催しに合わせた企画がよかった」「奈良検定を受けるつもりなので役に立った」「写真を撮って頂いた」「詳しいガイドでとても楽しく過ごせた」など、お客様アンケートの結果、9割以上が満足されたと回答があり、終始和やかな雰囲気でツアーを終了しました。
                                              文・写真 寺田麻美

トピックス(飛鳥)

キトラ・マルコ・高松塚の飛鳥三兄弟古墳を散策(2017.4.16)

今回の飛鳥地域散策のテーマは、「キトラ・マルコ・高松塚の飛鳥三兄弟古墳を散策~四神の館と飛鳥の奥津城巡り~」です。
三兄弟古墳を中心に、飛鳥地域の古墳時代・終末期古墳(7世紀前半)を案内するコースです。3つの終末期古墳の構造上特徴や立地について風水思想の影響、藤原京南西部エリアに広がる聖なるゾーン(陵墓地域)の説明がガイドポイントでした。

<行程>
近鉄飛鳥駅から明日香村東部の高松塚古墳・キトラ古墳を巡り、壺阪山駅から近鉄線を西へ越えて高取町の束明神古墳を巡り、マルコ山古墳ほか明日香村西部の古墳をたずねて、飛鳥駅に帰ってくる周回コースです。
近鉄飛鳥駅→高松塚古墳→檜隈寺跡→キトラ古墳→四神の館(昼食休憩)→(壺阪山駅)→岡宮天皇真弓丘陵→束明神古墳→マルコ山古墳→牽牛子塚古墳→岩屋山古墳→近鉄飛鳥駅 全行程約10kmで途中登り坂が多い健脚向きコースです。


4月16日(日)朝から晴天に恵まれウオーキング日和です。桜の満開は過ぎましたが、まだ花が残り春の香りが広がっています。距離が長い健脚向きコースで、最高気温25度の天気予報でしたが、67名もの皆さんにご参加をいただきました。
9時40分集合でしたが、近鉄吉野線の本数が少なく待ち時間が長くなるので、早く集まられた方から先に少人数のグループを組んで出発しました。
A1.jpg
<近鉄飛鳥駅から高松塚古墳へ>

まず「高松塚古墳」です。1972年から始まった調査で、石室内部から鮮やかに彩色された壁画が発見され、日本中に考古学ブームを巻き起こしました。これを契機として、「終末期古墳」が認識され始めました。今回の終末期三兄弟古墳の最初の古墳です。
壁画館には入らずに先を急ぎます。
A2.jpg A3.jpg 
                    <高松塚古墳>

檜隈寺跡前休憩案内所を経由して、「於美阿志神社・檜隈寺跡」です。於美阿志神社(延喜式内社)は渡来人集団・東漢(やまとのあや)氏の氏寺だった檜隈寺(ひのくまでら)の跡地に位置しています。1979年からの発掘調査によって、金堂・講堂とその基壇・塔・門・回廊・仏堂などが確認されました。
A4.jpg
  <於美阿志神社・檜隈寺跡>

「キトラ古墳」は、終末期三兄弟古墳の2つ目の古墳です。高松塚古墳の発見を契機に、1983年ファイバースコープを使用した調査で壁画が確認されました。四神などの壁画のほかに、天井に描かれた天文図は、現存する世界最古の精緻なものと評価されています。
A5.jpg
       <キトラ古墳>

「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」は、昨年9月に開館したキトラ古墳の壁画や出土品を保存管理・展示する施設です。周辺は国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区として整備され、休憩設備や芝生、ベンチがあるので、ここで昼食休憩をとりました。
A6.jpg
<キトラ古墳壁画体験館 四神の館前>

昼食休憩の後はあまりなじみのない行程をたどります。壺阪山駅に向かい駅南の陸橋をわたって西側へ、高取町役場の前を通って、途中「森カシ谷遺跡」を遠望しながら、飛鳥の王宮と紀ノ川河口とを結んだ「紀路」に入ります。「岡宮天皇陵」の前を通って、束明神古墳へ。岡宮天皇陵は宮内庁が草壁皇子の墓として管理する陵墓で、草壁皇子は、持統3(689)年に没し、天平宝字2(758)年に岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすらみこと)と諡号を贈られました。
A7.jpg A8.jpg
              <壺阪山駅南の陸橋を渡る>
A9.jpg A10.jpg 
     <森カシ遺跡を望む>          <岡宮天皇真弓丘陵>

しばらく上りが続く難所の行程に向かいます。丘陵の途中にある佐田集落の中を抜けて、一番奥にある春日神社への百段ほどの階段を上ります。「束明神古墳」は、春日神社境内に残る終末期古墳で、八角形墳と推定され、真の草壁皇子陵とする専門家が多いです。
A11.jpg A12.jpg
               <春日神社・束明神古墳>
A13.jpg  
      <佐田集落>

束明神古墳の後、丘陵沿いの山道を通って明日香村にもどり、三兄弟古墳の最後、六角形墳の「マルコ山古墳」に向かいます。高松塚古墳のような壁画が描かれた古墳は他にもないのかということで、1978年に調査されましたが、壁面に漆喰は塗られていたものの壁画はありませんでした。墳丘上に登れ、トイレも設置されています。
A14.jpg A15.jpg 
                  <マルコ山古墳への道>
A16.jpg
     <マルコ山古墳>

さらに丘陵沿いの山道を、途中にある「真弓鑵子塚古墳」を遠望しながら、「牽牛子塚古墳」に向かいます。牽牛子とはアサガオの別称で、以前は「あさがおづかこふん」とか「御前塚」と呼ばれていました。牽牛子塚古墳は版築により造成された八角形墳で、斉明天皇の墓の可能性が高いといわれます。ただし、宮内庁は、高取町大字車木に所在する車木ケンノウ古墳を、斎明天皇の越智崗上陵 (おちのおかのえのみささぎ)として管理しています。
隣接する「越塚御門古墳」の被葬者は、大田皇女(斉明天皇の孫、中大兄皇子の長女)が有力です。
A17.jpg A18.jpg
                  <牽牛子塚古墳への道>
A19.jpg
     <牽牛子塚古墳>

今回の行程の最後となる岩屋山古墳は終末期の方形墳です。精緻な花崗岩の切石を積んで構成されている「岩屋山式」と呼ばれる横穴式石室で有名です。墳丘の上には一本桜が咲いていました。

A20.jpg
<岩屋山古墳>

天気予報通り最高気温25度の夏日になりましたが、参加者の皆さんは健脚揃いで一人の脱落者もなく、全員飛鳥駅まで無事戻ってこられました。

お客様のアンケートでは、9割の方から満足という評価をいただきました。距離の点でもちょうど良いというご意見が9割を占めました。
個別には「ガイドの説明が詳しくわかりやすかった。古墳のことがよくわかった。一人では行きにくい駅西側の古墳を廻れてよかった。」などのご意見をいただきました。
ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました。
                                                 (記 石田一雄)

トピックス(北山辺)

ミステリーツアー知られざる北山辺の道(2017.3.25)

東大寺山堺四至図(とうだいじさんかいしいず)とは 
 東大寺の寺域を定めるために天平勝宝8年(756)に作成された麻布製の
 大図面(297×223cm)。
 現在も残る伽藍のほか東西両塔・新薬師寺堂・神地・氷池・氷室谷など
 興味深い記載が見える。 (原本は正倉院御物)
 この神地・氷池・氷室にスポットをあて残された史料類を比較検討の上、
 春日山麓に手掛りを求めて、その足跡を探索するツアーである。

IMG_0001_1_20170408102003217.jpg
神地推定地前の説明

1)ツアーの特徴
  ①史跡の表示が無いので側を通っても気付かず、人が立入らない謎め
    いた場所を探し出す醍醐味が味わえる。(ミステリーツアーの由縁)
  ②オリエンテーションを奈良文化会で1時間行い、予備知識を深めて
   出発した。
   古来 春日氏ゆかりのこの地域に平城遷都が始まり、神体山である
   御蓋山麓の支配権が、阿部氏→朝廷→藤原氏(興福寺・春日大社)
   へと移行した。
   8C~9Cにかけてこの地域で神事や諸行事が実施され、また諸施設
   の創建等が行われるが、平安遷都により10C頃には消滅したと見られる。

   (主な祭祀、建造物)
     イ、 阿部氏の社
     ロ、 朝廷の神事・祭祀(遣唐使や氷に関わる祭祀等)
     ハ、建造物(離宮、斎宮、等)

IMG_0001_2017040810200535c.jpg

  氷室土坑跡

2)ツアー順路
   晴天の下、14名の参加者、ガイド2名・サポーター2名で2班に分かれ、
   文化会館をAM11:00に出発して、最終地の新薬師寺金堂跡にて
   PM15:00に解散した。
      ①春日大社東西五重塔跡 ②御料園古墳群 
      ③国際フォーラム別館前で昼食 ④氷池(推定) ⑤氷室跡 
      ⑥神地跡(推定) ⑦築地塀跡 
      ⑧新薬師寺金堂跡・ 吉備塚跡(奈良教育大学構内)

  御料園古墳群 
   春日氏系の小円墳14基が飛火野園地東辺部に存在する。
   何れも墳頂は数10cmの削平を受けている。竪穴式構造で須恵器・鉄族・
   切子玉等出土。 7c後~8c前の築造。表示がなく墳丘がなだらかで1m未満
   のため、誰も気付かない。

  氷池跡(推定)
   東大寺山堺四至図には、吉城川(水谷川)が水谷神社の西で北へ大きく
   蛇行する辺りのすぐ西側に「氷池」の表記がある。
   氷室遺構 水谷神社の南東70~80mの地点に3基1セットの土坑が見られる。

  神地(推定)
    春日大社二ノ鳥居北西に隣接する60m四方程の区域と推定する。
  
  新薬師寺金堂跡 
   2008,11奈良教育大学構内(北東済)から間口52mの
   東西に長い建物遺構が出土し、新薬師寺金堂跡と断定された。
   東大寺山堺四至図の記載位置と一致。   
   光明皇后が聖武天皇の病気平癒のため創建した4町四方の
   広大な寺院であった。
                        ソムリエガイド 塩見勝彦 記

トピックス:粟原から忍坂・外山を巡る

粟原から忍坂・外山を巡る(2016.11.05)

<行程>
桜井駅南口(集合)―粟原寺跡―越塚古墳―赤坂天王山古墳―石位寺―舒明天皇陵―瀧川寺社建築―報恩寺―桜井駅南口(解散)

  好天に恵まれ、気持のよいスタートを切ることが出来ました。桜井駅からバスで粟原へ、バス停から急坂を15分で行程の最高地点である史跡粟原寺跡へ到達。中臣大嶋の発願により草壁皇子の菩提を弔うために694~715年にかけて建立された寺院の跡です。何時の時代かは不明ですが、山崩れにより倒壊、現在は塔・金堂他の30基程の礎石を残すのみです。

粟原寺跡
   <粟原寺跡にて>

 西に2km程歩き、越塚古墳へ。6世紀後半築造と思われる円墳で、築造主体・被葬者などは不明。組合式石棺の一部(底石)が残ります。更に西に1.5km程、赤坂天王山古墳へ。6~7世紀築造の方墳で、一辺45m程の規模を誇ります。巨石を持ち送った、高さ6mの玄室に巨大な刳抜き式石棺を納めます。真の崇峻天皇倉梯岡陵とするのが定説です。

天王山古墳   玄室内部
<天王山古墳開口部より石室内へ> <天王山古墳玄室内部(手前が刳抜き式の石棺)>

  石位寺では、管理する忍坂区の方々総出(?)の歓迎を受け、50分の昼食休憩を取りました。極めて保存状態の良い高さ1m強の三尊石仏は白鳳時代の重要文化財です。この三尊石仏については「粟原流れ(倒壊した粟原寺から散逸した寺宝のこと)」の伝承があります。

三尊石仏

  最初の八角形墳とされる舒明天皇忍坂陵の巨大さに接した後、国道を隔てた近くの株式会社瀧川寺社建築へ。宮大工の大御所瀧川昭雄会長による講話は90分に及びましたが、全員興味津々の様子でした。
  
瀧川昭雄会長   お客様

  最終訪問先は外山区の報恩寺です。昨年(27年)本堂を立派に改築し、奈良国立博物館に寄託されていた木造阿弥陀如来坐像(平安時代後期、像高216cmで周尺による丈六坐像)が里帰りされました。穏やかな顔つき、体躯のやや薄いバランスのとれた作風は定朝の可能性があります。確認が取れないので、博物館時代から定朝様(よう)と称されていました。お寺の開基は不明ですが、天和年間(17世紀後半)に大像を本尊として受け入れたことが伝わっています。「粟原流れ」が確実と考えられます。

阿弥陀如来坐像
<報恩寺 阿弥陀如来坐像>

  さすがに秋の風が冷たく感じられる頃、予定よりやや遅れての桜井駅到着となりましたが、ご参加の皆様には大変ご満足の様子でした。スタッフの方々のご協力にも感謝致します。
 

プロフィール
奈良をよく知り、奈良を愛するボランティアガイドのグループです。奈良の本当の素晴らしさを皆様にお伝えします。 奈良観光のご相談も、お気軽にどうぞ。

総合案内